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道の辺の一群れをなす薄の穂そよ吹く風にさ揺らいでいる

             藤本楠庭

鳰鳴くや月照りみてる池水の水のおもては立つ波もなし

           石井直三郎



   先生の鑑賞

鳰の鳴き声のする中で、月の光がいちめんに落ちている池のおもてに、立つ波もなくひそまりかえっているという、いわばしみとおるような静けさを詠んだ歌だと思います。

月の光にべっとりとたいらかに光っている静かな池の広い水面が目に見えるような気がいたします。



   僕なりの鑑賞

月に照らされている池の水面には・・・・・。

波ひとつない・・・・・。

ただ・・・・・。

鳰の声が聞こえるだけ・・・・・。

たたへたる水一面の月あかり鳴き立つ鳰のありど知られず

          石井直三郎



   先生の鑑賞

池に満々とたたえた水いっぱいに月光が落ちて、水面は冷たくその月あかりに光っていると思われます。

そういう美しい静けさの中でどこかに鳰の鳴き立てる声がするのですが、池面のどこにもその姿を見ることはできません。

池面ただ月かげがいっぱいにひそまりかえっているのです。

そういう気味わるいほどの凄い静けさが、姿は見えず鳰の声だけが聞こえるということと合わせて、身に迫るように感じられる歌だと思います。



   僕なりの鑑賞

月に照らされている・・・・・。

満々たる池の水・・・・・。

鳰が鳴いている・・・・・。

しかし・・・・・。

どこにも姿は見えない・・・・・。

鳰鳴くや月のしたびにたたへたる水は輪となりはてなかりけり

           石井直三郎



   先生の鑑賞

冴えた月夜の美しい静けさの中に鳰が鳴くー----そういうあたりの雰囲気に加えて、月光を一面に湛えた池の面に、まるい波紋がたって、いつまでもいつまでもひろがってゆくという、何ともいえぬ静かな情景が展開するのです。

その水の輪は鳴いた鳰が動いてたてたものか、あるいは他の動物がたてたものか、それははっきりしませんが、おそらく鳰の声が聞こえたのと同時くらいにひろがりはじめて、静かに静かに、たいらな池水の面(おもて)をひろがりつづけて行ったのでしょう。(以下略)



   僕なりの鑑賞

月に照らされている池の水面・・・・・。

鳰が鳴く・・・・・。

と同時に・・・・・。

波紋が広がって行く・・・・・。

どこまでも・・・・・。

どこまでも・・・・・。

果ての無きが如くに・・・・・。

一樹一草庭に用ゐずて庭をなせる相阿弥が眼のおきどころ尊と

            印東昌綱



   先生の鑑賞

庭の通常の概念を越えて、木草一つ置かずに、立派に庭の態を整えている庭師相阿弥の眼の高さを尊しと言っているので、この歌も思ったままに言っています。



   僕なりの鑑賞

石庭の真髄でしょうか・・・・・。

無造作に置かれ̪しやうなこれの石それぞれがもたる力をおもふ

             印東昌綱



   先生の鑑賞

二句目が口語風になっていますが、自分の思ったことをそのまま言ったのでしょう。

石がそれぞれに持っている力を玄妙に感じたのです。



   僕なりの鑑賞

石の配置における力・・・・・。

それぞれが、それぞれに・・・・・。

響きあっている・・・・・。

心の眼ふかぶかと此の庭にそそぎし相阿弥の力を味はさるる

             印東昌綱



   先生の鑑賞

相阿弥も庭作りにはもちろん深く心魂を傾けたにちがいありませんが、昌綱もほれぼれとまた深沈と心を注いでいたであろうことが偲ばれます。

下の句はその感嘆の思いをそのまま言葉にしました。



   僕なりの鑑賞

相阿弥の・・・・・。

芸術に取り組む姿・・・・・。

同じ芸術家としての作者・・・・・。

深く分かり合えるところが、おありなんでしょうね・・・・・。

平庭の石をまさごを音もなくぬらせる春の雨のこまかさ

           印東昌綱



   先生の鑑賞

竜安寺の石庭は、皆さまご承知のように、池も築山もありません。

真っ白な砂がしきつめてある文字通りの平庭です。

そこに春雨が降っているのですが、小糠雨ともいうべき、細かい雨脚で、石もまさごも一様に、音もなく降りかかって濡らしているのです。

そういう静けさのみちみちた世界に、作者は心深く溶け入って、庭のたたずまいの厳粛さに触れたのだと思われます。



   僕なりの鑑賞

石庭に吸い込まれてゆく・・・・・。

細かい春雨・・・・・。

音もなく静かに・・・・・。

あたへられし其のむきむきにいささかも形くづさず庭石は永遠(とは)に

                 ー--龍安寺ー--

                 印東昌綱



   先生の鑑賞

 昌綱は佐々木信綱の弟。

歌誌「心の華」に始めからおりました。

竜安寺と頭書のあるこの歌は、歌集「家」のうちに七首の連作として掲載されているものから採りました。

歌集の序に、小花精泉という人がこの歌を取りあげて、次のように評しております。

「これはかの有名なる相阿弥が庭師としての天才的力量を謳歌したものである。

相阿弥の一度すゑおいた庭石は動かすべくもない。

それは置くべき所に正しく置いたからである。

歌人の苦心して配列する歌文字も亦、相阿弥の庭石に於けるが如きものであって欲しいなと思いつつ私はこの歌を味わってみた」(以下略)



   僕なりの鑑賞

石庭でしょうか・・・・・。

庭師の配置された石・・・・・。

それは動かすべくもない・・・・・。

適材適所の永遠の美・・・・・。

たまたまあそび相手になりてやれば御用はないのといふ子かなしき

              水町京子



   先生の鑑賞

微妙なおとなの心をよく言いあらわしてあると思うと同時に、読む者の共感を誘うところだと思われます。

おとなしく一人遊びしている幼児がいとおしくなって、時には自分の仕事の手を止めて遊び相手をしてやるようにしますと、いつもはおとなの仕事ばかりしていて、良い子は一人で遊ぶのといっては構ってやらないことが多いものですから、「御用はないの」と幼児は問いかけます。

幼児にとっては、たまに遊んでもらえることがうれしくないことは無いはずです。

それにもかかわらず、いつもと違うことをしてくれるので、無邪気に思ったままを口にしてたずねかけるのです。

おとなの心からすれば、いとけない子が、自分に気を遣ってくれているようにも思えるでしょう。

その言葉を聞くと同時に、たまらなくいじらしく思う気持ちやその利発さをかわいく思う心がこみあげてまいります。

それをそのままに「いふ子かなしき」と言いおろしました。



   僕なりの鑑賞

子供なりに・・・・・。

忙しい自分に・・・・・。

気を遣ってくれている・・・・・。

ああ、いとおしい・・・・・。

よい子は一人であそぶとをしへつつひとりあそべるみれば愛しき

              水町京子



   先生の鑑賞

京子は、片付けておきたい仕事をいくつも抱えております。

だから、もう一人歩きできるようになった幼児のことで、子守に専念する時間はなるべく省きたいと思っています。

だから、「良い子は一人で遊ぶのよ」と言いきかせておきました。

そうすると、すなおなその子は、何かと自分で遊びを工夫しては、ひとり遊びをいたします。

親の言うことをよく聞きわけて、そのようにひとり遊びをし、京子の手をとらぬようにしている幼児を見ると、ふびんとも思われるようないとしさやかわいさが湧きおこってきます。

そうした気持ちと幼児に言いきかせたこととの間に、若干の矛盾めいたものを感じるのですが、その心のうちを「教えつつ・・・・・愛しき」という表現であらわしました。



   僕なりの鑑賞

忙しくて、なかなか構ってやれないけど・・・・・。

そうかといって・・・・・。

一人でおとなしく遊んでいる子を見れば・・・・・。

構ってやりたくもなる・・・・・。